石垣優「時間を生きる ベルクソンの時間をめぐって」 要約②

4.知性は「形式」という道具を利用し、空間上のものを扱う

キリンの長い首、コウモリの超音波のように、人間には「知性」を神は与えたもうた。知性は言わば道具のための道具であり、非常に広い分野に適用されることで、人間の文明は発達していった。

では「知性」とは一体何であろうか?空間とはどのような関係にあるだろうか?まずは「本能」と呼ばれるもう一つの顕著な傾向と対比させることから議論を始めてみよう。

知性も本能もその本分は「道具を創作し利用する為の能力」である。

本能の場合は自分の身体といった有機的組織を改変し利用することにある。花の色に擬態するカマキリも腐肉の臭いを発散する食虫植物も、本能がある特殊な環境下に見合った目的の為に有機物を改変していった好例である。これらの道具は特定の目的の為に専門化され、その機能は完全であるが、完全であるがゆえにこれ以上の高みに達することは不可能であるとも言える。

これに対して、知性が改変する対象は石、材木、金属といった無機物である。改変されて作成された道具は不完全であり、常に改良の必要性に晒されるが、それゆえに多くの可能性が開かれている。

本能も知性も生得的で遺伝的な能力ではあるが、何に対して生得的かで大きく異なる。本能は「そこに物が存在する」ということ、つまり事物について生得的であるが、知性はある事物と事物との関係について生得的である。もう少し詳しく言うと、腹が減ったら食物を探し求めるのは本能だが、これは「if="体内の栄養が足らなくなったら"、then"食べられそうなものを探す", else "普段通りの生活をする"」といった決定論的、プログラム的なものである。いずれも内的に充実はしているが、その効能を発揮するのは特定の状況下のみであり応用に欠ける。

これに対して知性は、「この食物は火を通すことで食べやすくなる」というものである。ここで注目されるのは食物という事物を火という別の事物と結びつけ関係性を持たせることで、火が通って食べやすくなった食物という新たな事物を生成することにある。無論火を通すだけではなく、水で煮たり薄くカットしたりといった、別の関係性を取り入れ選択肢を増やすこともできる。事物と事物を関係させていくこの「形式」は、非個別的であるが、それゆえに何事にも応用できる。

知性の前提にあるのは行動であり、私たちは「行動の目的を達するために何をしなくてはならないか?」と考える際、知性を働かせることで対応することができる。行動無くして知性は働きえない。

神は人から本能を引かれたが、その分知性を足された。私たちは足らぬ本能を知性で補って生活を営んだ。知性は当初実用のみに使用されたが、いつしか科学といった抽象的な概念に適用するようになった。私たちの文明の多様性と発展は、知性が持つ「形式」に負うている。

知性が改変の対象とするのは無機物であると述べたが、現代の科学技術の中には農学やバイオテクノロジーといった有機物も改変の対象となっている。これはどういうことか?

知性は改変の対象物に対し、多かれ少なかれ測定的である。そして測定はある地点を固定化しなくてはうまく行かない。固定とはあるものの範囲のひろがりがはっきりしていること、つまり他のものとの境界が明確であること、外在性を持つことを言う。そしてそれらは分割可能である。私たちは野菜や細菌といった有機物に対し、配置換えが可能な微小な断片として(遺伝子の組み換えを考えればわかりやすい)扱うことで、無機物同然と見なしている。

この製作的知性は、対象が不動物である場合はうまく行く。たとえ有機物や質的多数性を持つものに対してすら、無限に分割可能なものと見なして改変していく。そしてこの改変が続けられる場は「空間」である。知性と空間の関係は、ちょうど包丁(知性)とまな板(空間)のようなものであろう。まな板上のニンジンは対象物である。

5.カントの空間と時間について。時間を空間化したために難問が生じた。

カントは、空間と時間を「感性の先天的な形式」とした。空間は外的事物に対する形式であり、時間は内感の形式とした。私たちがものを認識するには、この「感性の先天的な形式」と「純粋悟性概念(カテゴリー)の先天的な形式」が結合しなくては成立しない、と述べた。

これは製作的知性に限れば間違いなく正しいと言えるだろう。製作的知性の高度な発展形は数学や科学であるが、これらは空間と基礎とした概念の構成(総合的判断)であり、空間は3次元であることは必然であり、純粋な判断であるとカントは述べた。

カントが言う数学は古典的なユークリッド幾何学であったと思われるが、別にN次元空間を扱う非ユークリッド幾何学であってもこの理論は成立するであろう。なぜなら、私たちは千角形を描くことはできなくても千角形の内角の和は計算できるように、新しい概念は既知の概念の組み合わせから得られるからである。N次元空間に実際に居ることはできないが、3次元空間を通してそれを理解することはできるであろう。現代数学も空間を前提とする以上、これもカントの批判内に留まると思われる。

しかしここで3.で述べた数字自体が持つ質的多様性に立ち返ってみよう。私たちが目の前の羊を「1頭、2頭、3頭…」と数えるとき、それに必要なものは持続の力であると述べた(持続が無ければ1頭、2頭と既に数えたという過去がなく、3頭目を数えることができない)。また数字には「数える対象物固有の性質を無視すること」「事物を和算・分割する」性質があると述べた。重要なのは、数学が取り扱う数字そのものが、持続の力なしには成立し得ないことである。

カントは時間を空間として扱ったが、そのような世界では持続は存在しないことになる。ところが数学の根本である数字は、持続の力によって成立している。つまり時間を空間として、量的なものとして扱ってしまうことは誤りであると言える。少なくとも数学は空間を前提とする以上この理論は有効であるが、私たちの生きる世界は数学だけではない。質的多様性にあふれた世界である。とするとカントの理論で私たちの認識の全てを説明しようとするのは、無理があると言わざるを得ない。

最後にカントの言う「自由」について考えてみる。カントによれば私たちには時間的条件(この時間は空間化した時間である)に縛られない自由な「私自体」が存在するが、私たちが現象界に生きている限り常に時間と空間、そしてこれらの上で展開される諸因果に支配されてしまうため、自由になりえない、と。

ベルクソンはこの議論に異を唱える。自由になりえないのは時間を空間化しているためだ、と。時間は相互浸透のたゆみないメロディーであり、そこに耳を傾ければこれからのメロディーの奏で方を自由に決めることができる、と。持続の時間の中で蓄積された記憶は、諸因果のように支配していくのではなく、自身の後ろ盾になりうる、と。

6.ゼノンの飛ぶ矢の原理。今という瞬間と現在とは違う。

 ベルクソンはこのように自由を語ったが、これは徹底的に経験に即して考えたのであり、裏を返せば自由の経験の感動をそのままに捉えることがいかに難しいか、ということが表されている。自由を言葉に表した時点で、言語化した自由は経験そのものから変質してしまっていることだろう。なぜなら言葉は他者へわかりやすく情報を伝えるために、質的多様性を切り捨てて端的に示すツールであるからだ。

従って、自由という言葉尻ばかりを捉えて議論を重ねたところで、現れてくるのは言葉のジャングルばかりであり、その下に流れる瑞々しい源泉から遠のいてしまう。

このことを示すために有名な「ゼノンの飛ぶ矢の原理」を挙げてみよう。これは「飛んでいる矢は一瞬一瞬は止まっているのにどうして飛ぶことができるか?」という問いである。この問いの誤りは、矢の運動を瞬間に分割し、運動そのものを矢の通過する軌道の問題にすり替えてしまうことにある。つまりこの問いの言葉自体が運動そのものを問うことからミスリードしてしまうことになる。

運動を分割することはできない。例えばちゃぶ台にあるガラスのコップを腕を伸ばして取る運動があったとする。この運動はコップを取るという目的のもとに成立する一連の動作だが、もしこれを分割したらどうなるか。おそらく「腕を伸ばす」「コップを握る」「握った腕を引き戻す」の3点に分割されるが、いずれもコップを取るという運動からはかけ離れてしまったものになる。(「腕を伸ばした」のは伸びをする為なのか?人を殴るためなのか?そのニュアンスが分からなくなる)

私たちが運動を真に認識するには、その運動を軌道といった空間上の現象として還元することなく、運動を独特の質的多数性を持つものとして捉える必要がある。

このように、ゼノンの原理で前提とした「一瞬」は空間における分割されたある一点であるが、これを私たちが生きる時間と混合しないようにしたい。私たちは一瞬が積分された時間を生きるのではない。

私たちが生きるのは「現在」であり、これは「私は社会人だ」と言ったステータスを示すものであったり、「今文章を書いている」というここ数分の出来事であったりする。現在の幅は自在に変化し、それは自身の関心の領域によって変動する。