乗る喜びの覚え書き

昨日、自粛明けに西武線に乗りに行った。西武多摩川線拝島線の一部、それに新型特急Laviewに乗ることが目的だった。その日は8時には家を出て横浜線から中央線の武蔵境に行き、そこで西武多摩川線の攻略に取り掛かっていた。

終着の是政駅から折り返して武蔵境の高架に差し掛かる際、曇天からかすかに陽が洩れて辺りが照らされた。そのとき私には、乗る喜びー心の芯が温まるようなおおらかな心情ーが一気に沸いてきた。自粛以降、すっかり忘れていた境地だった。

 

この喜びは刹那的な刺激では得られないものである。おいしいもので味覚を刺激したって、アミューズメントで楽しさを一方的に受けたって、いずれも心の表層のみへの刺激でしかない。芯には届かないのである。

 

小学校のころ、父がバナナのかっこうをしバナナのにおいのする菓子を買ってきましたが、比較的おいしいのでお客さん用にしようということになり、カンに入れてしまってありました。そうしてお客さんが来ると私たち子どもも分けてもらっておりました。それで、お客さんが来ればいいのになあと思い、来るとああよく来てくれたと大喜びするというふうでした。

何もないという状態のところに、お菓子がカンの中にはいっていた。その上に客がくて菓子を食べているという状態があった。だからそのころはお菓子がおいしかったわけです。

ところが、どうもいまは…お菓子の食べ続けで、何を食べてもおいしくないのは無理もありません。おいしいお菓子があって、それを食べるとおいしいということろから始めると、手軽でよいと思われるかもしれませんが、こうやって始めると、最初より二度目、二度目より三度目と段々刺激を強くしていかないと、同じようにおいしいとは思えなくなってしまいます。

 

社会学はこの世の悲惨ー人間の醜さーの現状を分析して明らかにする、怒りや憎さの学問である。全ての喜びは他者にあり、同時に全ての地獄も他者にありと言うように、喜びには裏があるという条件付きの窮屈な両義性をまざまざを見せつけてくる。これは自身の悲惨な最期を予見するような、悲劇的な学問である。

対して、鉄道に乗るこの喜びは、根源的なものであって、条件や両義性を伴わない。掛け値なしの喜びそのものである。社会学で見てきた現実ーまた逃れがたき存在ーとは正反対の、一種の理想である。

それは自身の唯一の救済の道であり、赦しである。それは名状しがたい「穏やかで、おおらかなこころ」となって私に現れるのである。