喜びを考える

全ての喜びは、同時に全ての地獄である他者に存在する。この言説は本当だろうか?


人が喜びを感じるには、地獄を見るリスクを背負わなければならない。つまりそれは、私たちには地獄を見る覚悟がなければ喜びを感じる権利はない、ことを意味する。喜びを語るにはあまりに強迫的でないだろうか?


人の喜びはもっとやさしく、無条件で、掛け値のないもののはずである。そこに他者がいなくてはならないなどの条件はつかないはずである。


例えば、腹一杯食べたあと、よく晴れた芝生の上に寝転んで、気持ちよく寝る。これは喜びである。しかしここで得られる喜びに、誰々の名前は入ってこない。自分自身のみが感じた喜びである。


他者不在の喜びが、病理的・自閉症的に見られるのは、見る人側が「喜びの全ては、他者にある」という色眼鏡を掛けているからである。

コミュニケーションを「他者からどう見られているか」からいかに解放されるかは、今までよく研究されている。しかしコミュニケーションそのものから自分を解放する、というのは、独りよがりだとして省みられなかったのではないだろうか?


むしろ本源的な喜びは、他者=コミュニケーションというリスク付きなものは付随しない、自分自身から湧き上がる「大らかな気持ち」あるいは「発見の鋭い喜び」ではないだろうか?