ポスト・パノプティコンとしてのリキッド・サーベイランス

ライアン:監視の話をすると必ずパノプティコンが出てきて鬱陶しい。すでに論理的限界に加えて歴史的限界があるのでは?

パノプティコンとは

可視的な場に強制的に据えられていて、そのことを自覚している人間は、自ら権力による強制の責任を引き受け、自発的にその権力を自分自身に対して働かせる。

 例えばパノプティコンの性質を最も過酷に示した「スーパーマックス刑務所」では、そのあまりの監視の苛烈さに受刑者が精神に異常を来して自傷行為を行うが、これは自らの身体を張った支配者への自己主張、言うなら「従順に対する反逆」ではないだろうか?

一方で最も穏やかな部分を示したデータベース・マーケティングでは一部のだまされやすい人間を驚くほど従順にしてはいないだろうか?

以上からしてもパノプティコン理論ではうまく説明できない部分が出てきてしまっている。どう思います?

 

バウマン:パノプティコン理論はいまだ健在と言えるが、普遍的な支配の戦略とは言えない。これは刑務所や精神病院といった「全体的施設」という過酷な監視環境で働く特殊理論である。対象は社会から「役立たず」と宣告されたのけ者である。

全体的施設の役割は、人間としての属性を剥奪することにある。そう考えれば先ほどの「スーパーマックス刑務所」の話も逆説的とは言えない。むしろ監視者からすれば受刑者が勝手に自傷行為や自己破壊を行い、自ら人間であることをやめてくれるので都合がよい。

ここで言いたいことは、「支配者が自分の望んでいることを、被支配者に押し付ける」のではなく「被支配者が『自発的に』、支配者が望むことを行う」ことにある。強制から誘惑へ、警備から欲望の喚起へと移行していく。同時に上司から部下へ、行為者も支配者から被支配者へ、行為の主体が移行する。

パノプティコンのもうひとつの特色と言えば、被支配者の個人性の徹底的な排除である。うすいおかゆや死ぬほどの退屈を通じて、被支配者の生活の選択肢を極限レベルまで減らす。(ヴェーバーの官僚制の「非個人性」に似ている!)

ただし現代はかつての管理者は消え失せ、代わりに管理者が請け負った責任を従業員が背負うようになった。そこから生まれたのはその人の全人格を会社に生かすことであった(自分らしさを仕事に、と就活本で書いてあったように)

 

ライアン:対象は社会から「役立たず」と宣告されたのけ者にはパノプティコンは有効と言ったが、これは全体的施設以外の場でも有効だろうか?

例えば「バノプティコン」は入国の際の民族マイノリティやテロリストのブラックリストのようなもので、これらの人間を「歓迎されざるもの」として排除するものである。