石垣優「時間を生きる ベルクソンの時間をめぐって」 要約①

1.私たちは質と量との二重性においてものをみている

私たちは昔体験した感動を追体験することがある。しかしそれは昔感動したものとは全く違う感動の仕方をすることがある。それはちょうど、赤色の絵の具にほんの少しの青色を混ぜただけで全く違う色になってしまうことと似ている。

「量」的にはほんのわずかであっても、何かが変われば、それだけで私たちからの見え方の「質」はガラリと一変する。メロディーにせよ無垢の壁にかかった一枚の絵にせよ。

私たちは、質的な相と量的な相という二重の相において物事をみている。しかし実際に私たちが生きているのは質的な相であり、量的な相は後から便宜上作り出した概念にすぎない。

 

2.私たちは質を生きるが、量で表現する

まず、量とは何か?

それはある単位に沿って、物が数えられるように置かれたものの形態を指す。

数える際は、数える対象の個性や各々の違いに目を向けることなく、ある空間上に並べる必要がある。長さや重さといった一見数えられないような概念も、空間上に定義した「目盛り」がいくつあるか(1cmが10個。だからこの長さは10cmだ!)で測定することができる。

ここで重要なのは、量はすべて「空間」を前提にしている点である。量を測定する、とは「二点間の長さを測ること」である。ここでは時間ですら、過去、現在、未来という数直線上の異なる2点の長さを調べることで測定できてしまう。本来質的なものであるはずの時間は「数直線」という、目に見えるもの、つまり空間上の概念に還元され、量的なものとして取り扱われる。

この量という概念は生活の必要上欠かせないものとなっている。例えば風呂に漬かるとき、質的な表現では漬かった瞬間のフィーリングを表すことは困難だが、量的な表現なら「この風呂は40度だ。ちょうど良くて気持ちいい」と端的に、かつ相手に分かりやすく伝えることができる。人は他者なくしては生きられないが、相手に自分の意図を説得的に伝え、共感や承認を得るには、量的な表現は有効なコミュニケーションツールになりうる。

量的表現は、嬉しいといった感情や、明るい、痛いといった知覚といった質的な概念までに及ぶことがある。例えば目の前の読書灯の調光ネジを今の倍にしてみる。その際ライトは明るくなるが、私たちはこれを「ネジをひねる前の2倍明るくなった」と表現するだろう。

この心理状態を量的な表現に置き換えると「強度」という言葉になる。心理状態といっても2パターンあり、感情や道徳、筋肉的疲労感といった外的要因に依存しない身体の内側の感覚と、肉体的快感や痛覚といった外的要因が引き起こす表象的感覚がそれである。今の読書灯の例えは後者に分類されるだろう。

では前者は何かというと、ここでは「恋」を挙げてみる。人は恋をしたとき、まず相手への漠然とした憧れが現れ、次に相手の全てを手に入れたいという欲望へ転じる。しかし他者故に全てを手に入れることはできないから、欲望は叶わない、しかし叶えたいという葛藤に陥る。この葛藤は中々冷めず、やがては相手のいない生活領域にいるときでさえ、そのことを考えてしまう。質的表現とはこの憧れから葛藤までの一連のプロセスを指すが、「強度」はこれらのプロセスを数直線化し、憧れの段階ではステージ1、葛藤に入る頃がステージ3、といった具合に恋の度合いを数値で表現してしまう。そしてステージの数値が大きくなるほど恋の「強度」が深まった、と解釈することになる。

このように量的表現とは、感情といった意識の深みから「内的多数性」を観測可能レベルまでに引き上げていくこと、そしてそれを、外から持ってきた単位や「強度」といった広がりのある大きさの観念にあてはめる表現技法のことを言う。

 

3.量や数は空間的なものだが、それ自体の性質を持つ

 1.で述べた通り、私たちは質的な相と量的な相の二相性を常に持って生きている。ここでは前者を量的多数性、後者を質的多数性と表現しよう。

ここではメロディーを例えに出してみる。ある曲の楽譜があって、そこには無数の音符が書かれている。そこでたった一つの音符を休符に変えて音を抜いてみる。試しに演奏してみると、たった一つの音符を無くしただけなのに、聞き手は「このメロディーはどこか音が抜けている」という、元のメロディーとは全く異質であるという評価を残すだろう。

量的多数性からすれば音符をひとつ抜かした「だけ」であり、これはささいな変化に過ぎない。これは楽譜に書かれた音符が「外在的で、数えられるもの」でしかなく、前後の音符とのつながりは一切無視される為である。しかし内的多数性において重視されるのは前後とのつながり、言い換えれば「相互浸透のダイナミズム」である。従って音符ひとつが抜ければつながりは壊れ、メロディーは異質なものと化してしまう。

私たちの意識や過ごす時間は、まさにこの相互浸透のダイナミズムである。「同じ曲」という量的多数性においては音の波長や大きさが常に一定の存在であっても、それを私たちの生活の文脈ー嬉しいときに聴くか、つらいときに聴くかーに即することで、意味合い、つまり質的多数性は全く異なっていくことだろう。

 私たちはこれを「持続の力」という。その背景にあるのは記憶と過去という圧倒的なバックグラウンドである。過ぎ去ったことは二度と繰り返すことはない、とよく言う。これは自身が今まさに生きているこの瞬間は、退屈な日常の反復ではなく、常に新しいものが生まれてきている、ということの裏返しでもある。「持続」がない世界では過去がなく記憶もない。あるのは瞬間のみであるから、反復ということが起こりうるのである。

質的多数性とは性質的多数性を指し、私たちは世界を性質として質的に認識する。しかし量的に世界を捉える行為も、それ自体が質的認識とはいえないだろうか?例えば目の前の羊の数を数える際、私たちは必ず1頭、2頭、3頭…と言うだろう。ただの量的認識と捉えがちだが、実はこの行為の中に質的多数性を孕むポイントが2点ある。

一つ目は3頭目の羊を数えるとき、1頭目と2頭目の羊を空間上のどこかに残せているということ。持続無き世界では過去という概念が存在しない為、1頭、2頭と数えた過去すら存在しなくなる。数えるという行為は「1頭目、2頭目を数えた」という記憶無しには、つまり持続無しは不可能である。

二つ目は1頭、2頭…の数字自体が他の記号にはない特殊な「性質」を宿していること。数える際はa頭、b頭…とは言わないが、これはa頭、b頭では分割したり和算したりすることができない為である。数字は本来分割・和算が可能という特殊な性質を持つ。さらに言えば、「1」という概念自体は分割することのできない非連続的な記号である。数字という非連続的な記号を並べ、それらに分割・和算という性質を加えることで、初めて量的単位として見做されるようになる。

サヴァン症候群の人々は数字自体に特殊な意味を持たせることで、その数字に特有のイメージを垣間見るようである。だから加減乗除が全くできなくても、膨大な円周率を瞬時に記憶できるらしい。このように、あらゆる数字はその感情的等価物を持ち、その世界は第二の自然である。第二の自然とは、質的多数性に生きる私たちが生んだ、豊富なニュアンスの海である。

さて私たちの日常生活は質的な相と量的な相を抱えているとすでに述べたが、このことについてもう少し詳細に検討してみよう。

ベルクソンは時計の振り子の例えを用いて、次のように説明する。自我の外にある振り子の世界は持続無き世界であり、あるのは振り子の各々の瞬間的な位置しかない。これに対して自我では持続の力が働き、過去の振り子の位置と現在の振り子の位置の相互浸透、つまり有機化が行われている。この持続無き外的空間と持続が働く内的自己の間に「交換」という現象が発生し、内的自己における意識と外的空間の振り子の位置を対応させてしまい、私たちの意識は相互に外的な諸部分に分解されてしまう。

自己紹介を例に挙げてみよう。自己紹介とは「私とは何者か」を他者に語ることだが、これは言葉なしには行うことができない。ところが言葉自体が空間内の特殊な音波の集合体(声)あるいは特殊な記号の集合体(文字)という外在性を持つものであるが故に、私たちの意識を言葉に表した瞬間、意識はすでに言葉という外的な諸部分に分解されてしまうと言えよう。