石垣優「時間を生きる ベルクソンの時間をめぐって」 要約③

7.過去はどこにあるか

 過去とは何か?それは有効性を失ったイマージュである。私たちは過去という広大な沈殿の上に、その表層で物質世界を知覚している。感覚器官が外的刺激を感知し、その電気信号が脳に伝わってから運動器官に命令するまでの物理的なプロセス自体は「純粋知覚」と呼ばれるが、実際のところ、私たちが純粋知覚を体験することはまずない。

実際の知覚には必ず記憶が混在する。その記憶には深さに応じて様々なレベルがあり、どれほど深さの記憶を知覚に持っていくかで自由度が決まるとされる。自己を表現する際、浅い記憶を持ってくれば誰にでも理解されやすい自己像を構築できるし、深い記憶を持ち込めば、言葉では表現しにくい真に迫った自己を展開できる。

記憶は言わば闇の中に存在し、絶えず日の目を見たがっている。そしてそれらの記憶は何一つ失われることなく闇の中に存在し続ける。私たちが物質世界において知覚されるとき、初めて記憶は闇から取り出され日の光を浴びることになる。

大脳の役割は記憶を貯蔵する倉庫ではなく、知覚の際にどの記憶を選抜するか、あるいはどの記憶が不必要であり闇に押し込むかを選択するロボットアームのようである。

一方で未来とは何か?それは明確に定まった方向性を持たない比喩的存在であるが、これをカントが語る空間上の時間と同列にしないようにしたい。空間上の時間は過去ー現在ー未来を同一数直線上にあるとみなし、持続ある時間ではないが、それゆえ何かを表現するには便利である。そしてこの考えは、物質的世界の分析においては非常に有効な概念である。

8.科学は物質世界を取り扱う。なぜ数学は科学において役立つか。量子力学の示唆。

 空間概念についてもう少し掘り下げてみよう。空間概念を人間が生み出したのは、気まぐれではなく必要に応じて作ったのである。そもそもこの物質世界には「広がり」という物質特有の性質が存在する。これはあるものとあるものの境界を定める外在性の概念である。人間はこの性質に能力をあてはめるようにして知性を獲得した。

以前述べたように、知性は所与としてあったのではなく、製作・行動の必要に迫られた結果として獲得されたものである。目が勝手に出来て、それがたまたま光の世界を見るのに役立ったとはいえないのと同じである。目が出来たのは最初に光があったからである。

物質的性質は知性を作り上げるための前提となった。その知性は物質的性質をうまく活用して物質を改変する。このように、知性と「広がり」という物質的性質は、一つの運動の二側面である。

この理屈は、抽象的概念のはずの数学がなぜ自然界の諸法則の解明に役立つか?という疑問に答える際に必要である。これは私たちが観測する自然界の法則(=物質的性質)と純然とした空間概念を前提とする数学(=知性)はひとつの運動の2側面に過ぎないからである。

ではここでヨーロッパの数学史から、物質的性質と知性の運動を解き明かしてみよう。

まず紹介するのは1500年代頃の天文学である。当初支持されながら極めて複雑な計算を要したプトレマイオスの天動説に、異を唱えたのはコペルニクスであった。彼は自然の数学的秩序はもっと単純で美しくあるべきだという信念を貫き、地動説という奇説を採用した。

これを支持したのはケプラーであった。彼はティコ・ブラーエの遺した観測データに一致する理論の構築に情熱を注ぎ、天性の数学的直観力もあってケプラーの法則という美しい数式を構築した。

 

第3法則

惑星の公転周期 T の2乗は、楕円軌道の半長軸 a の3乗に比例する。

T^2 = ka^3  または T^2 / k = a^3

 特筆に値するのは、ケプラーが観測データという物質の1断片の集合体とギリシャ時代からあった別個の楕円の数学理論を結び付けて科学的事実を創ったことにある。観測データには星の動きという物質的性質が闇に潜在している。ケプラーはこれを数学理論という知性の道具で闇からサルベージし、単純で美しい形式に表したのである。

ガリレイニュートンの時代に至って、数学と科学との関係の密接さは完成されたといってよい。ガリレイは真空状態という実在しない空間を想定し、そこにおける落下スピードは全物質共通の数式があることを発見した。ニュートンは運動の第3法則で外力が存在しない空虚な空間を想定し等速直線運動を発見した。

両者は、分割可能で実在しない空間概念を意識的に表現したことに共通点がある。さらにニュートンは、例えばハレー彗星の予測や海王星の発見など、数学の理論が最初にあって、後世になってからその理論が実験や観測によって実証される、という科学者共通の精神を発明した。ケプラーは観測データから理論構築という手順を踏んだが、ニュートンはその手順を逆にしたという意味で画期的であった。

19世紀になって、数学的記述の意味するところのものこそ自然の実在を示すという信念は更に強固なものとなった。ファラデーの電磁誘導やそこから導かれたマクスウェルの方程式は、ニュートンのように直接目に見えるものではない。さらに量子力学における電子や陽子は、もはや実態を捉えることはできない。

だからと言ってこれらは全て偽であろうか?否、これらには全て数式の保証がある。いずれも眼は必要ない。ともすれば、私たちが信じていた絶対空間や絶対時間は、仮にこれらが数式的に矛盾すると証明されてしまえば、全て偽になってしまうのだ!

石垣優「時間を生きる ベルクソンの時間をめぐって」 要約②

4.知性は「形式」という道具を利用し、空間上のものを扱う

キリンの長い首、コウモリの超音波のように、人間には「知性」を神は与えたもうた。知性は言わば道具のための道具であり、非常に広い分野に適用されることで、人間の文明は発達していった。

では「知性」とは一体何であろうか?空間とはどのような関係にあるだろうか?まずは「本能」と呼ばれるもう一つの顕著な傾向と対比させることから議論を始めてみよう。

知性も本能もその本分は「道具を創作し利用する為の能力」である。

本能の場合は自分の身体といった有機的組織を改変し利用することにある。花の色に擬態するカマキリも腐肉の臭いを発散する食虫植物も、本能がある特殊な環境下に見合った目的の為に有機物を改変していった好例である。これらの道具は特定の目的の為に専門化され、その機能は完全であるが、完全であるがゆえにこれ以上の高みに達することは不可能であるとも言える。

これに対して、知性が改変する対象は石、材木、金属といった無機物である。改変されて作成された道具は不完全であり、常に改良の必要性に晒されるが、それゆえに多くの可能性が開かれている。

本能も知性も生得的で遺伝的な能力ではあるが、何に対して生得的かで大きく異なる。本能は「そこに物が存在する」ということ、つまり事物について生得的であるが、知性はある事物と事物との関係について生得的である。もう少し詳しく言うと、腹が減ったら食物を探し求めるのは本能だが、これは「if="体内の栄養が足らなくなったら"、then"食べられそうなものを探す", else "普段通りの生活をする"」といった決定論的、プログラム的なものである。いずれも内的に充実はしているが、その効能を発揮するのは特定の状況下のみであり応用に欠ける。

これに対して知性は、「この食物は火を通すことで食べやすくなる」というものである。ここで注目されるのは食物という事物を火という別の事物と結びつけ関係性を持たせることで、火が通って食べやすくなった食物という新たな事物を生成することにある。無論火を通すだけではなく、水で煮たり薄くカットしたりといった、別の関係性を取り入れ選択肢を増やすこともできる。事物と事物を関係させていくこの「形式」は、非個別的であるが、それゆえに何事にも応用できる。

知性の前提にあるのは行動であり、私たちは「行動の目的を達するために何をしなくてはならないか?」と考える際、知性を働かせることで対応することができる。行動無くして知性は働きえない。

神は人から本能を引かれたが、その分知性を足された。私たちは足らぬ本能を知性で補って生活を営んだ。知性は当初実用のみに使用されたが、いつしか科学といった抽象的な概念に適用するようになった。私たちの文明の多様性と発展は、知性が持つ「形式」に負うている。

知性が改変の対象とするのは無機物であると述べたが、現代の科学技術の中には農学やバイオテクノロジーといった有機物も改変の対象となっている。これはどういうことか?

知性は改変の対象物に対し、多かれ少なかれ測定的である。そして測定はある地点を固定化しなくてはうまく行かない。固定とはあるものの範囲のひろがりがはっきりしていること、つまり他のものとの境界が明確であること、外在性を持つことを言う。そしてそれらは分割可能である。私たちは野菜や細菌といった有機物に対し、配置換えが可能な微小な断片として(遺伝子の組み換えを考えればわかりやすい)扱うことで、無機物同然と見なしている。

この製作的知性は、対象が不動物である場合はうまく行く。たとえ有機物や質的多数性を持つものに対してすら、無限に分割可能なものと見なして改変していく。そしてこの改変が続けられる場は「空間」である。知性と空間の関係は、ちょうど包丁(知性)とまな板(空間)のようなものであろう。まな板上のニンジンは対象物である。

5.カントの空間と時間について。時間を空間化したために難問が生じた。

カントは、空間と時間を「感性の先天的な形式」とした。空間は外的事物に対する形式であり、時間は内感の形式とした。私たちがものを認識するには、この「感性の先天的な形式」と「純粋悟性概念(カテゴリー)の先天的な形式」が結合しなくては成立しない、と述べた。

これは製作的知性に限れば間違いなく正しいと言えるだろう。製作的知性の高度な発展形は数学や科学であるが、これらは空間と基礎とした概念の構成(総合的判断)であり、空間は3次元であることは必然であり、純粋な判断であるとカントは述べた。

カントが言う数学は古典的なユークリッド幾何学であったと思われるが、別にN次元空間を扱う非ユークリッド幾何学であってもこの理論は成立するであろう。なぜなら、私たちは千角形を描くことはできなくても千角形の内角の和は計算できるように、新しい概念は既知の概念の組み合わせから得られるからである。N次元空間に実際に居ることはできないが、3次元空間を通してそれを理解することはできるであろう。現代数学も空間を前提とする以上、これもカントの批判内に留まると思われる。

しかしここで3.で述べた数字自体が持つ質的多様性に立ち返ってみよう。私たちが目の前の羊を「1頭、2頭、3頭…」と数えるとき、それに必要なものは持続の力であると述べた(持続が無ければ1頭、2頭と既に数えたという過去がなく、3頭目を数えることができない)。また数字には「数える対象物固有の性質を無視すること」「事物を和算・分割する」性質があると述べた。重要なのは、数学が取り扱う数字そのものが、持続の力なしには成立し得ないことである。

カントは時間を空間として扱ったが、そのような世界では持続は存在しないことになる。ところが数学の根本である数字は、持続の力によって成立している。つまり時間を空間として、量的なものとして扱ってしまうことは誤りであると言える。少なくとも数学は空間を前提とする以上この理論は有効であるが、私たちの生きる世界は数学だけではない。質的多様性にあふれた世界である。とするとカントの理論で私たちの認識の全てを説明しようとするのは、無理があると言わざるを得ない。

最後にカントの言う「自由」について考えてみる。カントによれば私たちには時間的条件(この時間は空間化した時間である)に縛られない自由な「私自体」が存在するが、私たちが現象界に生きている限り常に時間と空間、そしてこれらの上で展開される諸因果に支配されてしまうため、自由になりえない、と。

ベルクソンはこの議論に異を唱える。自由になりえないのは時間を空間化しているためだ、と。時間は相互浸透のたゆみないメロディーであり、そこに耳を傾ければこれからのメロディーの奏で方を自由に決めることができる、と。持続の時間の中で蓄積された記憶は、諸因果のように支配していくのではなく、自身の後ろ盾になりうる、と。

6.ゼノンの飛ぶ矢の原理。今という瞬間と現在とは違う。

 ベルクソンはこのように自由を語ったが、これは徹底的に経験に即して考えたのであり、裏を返せば自由の経験の感動をそのままに捉えることがいかに難しいか、ということが表されている。自由を言葉に表した時点で、言語化した自由は経験そのものから変質してしまっていることだろう。なぜなら言葉は他者へわかりやすく情報を伝えるために、質的多様性を切り捨てて端的に示すツールであるからだ。

従って、自由という言葉尻ばかりを捉えて議論を重ねたところで、現れてくるのは言葉のジャングルばかりであり、その下に流れる瑞々しい源泉から遠のいてしまう。

このことを示すために有名な「ゼノンの飛ぶ矢の原理」を挙げてみよう。これは「飛んでいる矢は一瞬一瞬は止まっているのにどうして飛ぶことができるか?」という問いである。この問いの誤りは、矢の運動を瞬間に分割し、運動そのものを矢の通過する軌道の問題にすり替えてしまうことにある。つまりこの問いの言葉自体が運動そのものを問うことからミスリードしてしまうことになる。

運動を分割することはできない。例えばちゃぶ台にあるガラスのコップを腕を伸ばして取る運動があったとする。この運動はコップを取るという目的のもとに成立する一連の動作だが、もしこれを分割したらどうなるか。おそらく「腕を伸ばす」「コップを握る」「握った腕を引き戻す」の3点に分割されるが、いずれもコップを取るという運動からはかけ離れてしまったものになる。(「腕を伸ばした」のは伸びをする為なのか?人を殴るためなのか?そのニュアンスが分からなくなる)

私たちが運動を真に認識するには、その運動を軌道といった空間上の現象として還元することなく、運動を独特の質的多数性を持つものとして捉える必要がある。

このように、ゼノンの原理で前提とした「一瞬」は空間における分割されたある一点であるが、これを私たちが生きる時間と混合しないようにしたい。私たちは一瞬が積分された時間を生きるのではない。

私たちが生きるのは「現在」であり、これは「私は社会人だ」と言ったステータスを示すものであったり、「今文章を書いている」というここ数分の出来事であったりする。現在の幅は自在に変化し、それは自身の関心の領域によって変動する。

 

 

石垣優「時間を生きる ベルクソンの時間をめぐって」 要約①

1.私たちは質と量との二重性においてものをみている

私たちは昔体験した感動を追体験することがある。しかしそれは昔感動したものとは全く違う感動の仕方をすることがある。それはちょうど、赤色の絵の具にほんの少しの青色を混ぜただけで全く違う色になってしまうことと似ている。

「量」的にはほんのわずかであっても、何かが変われば、それだけで私たちからの見え方の「質」はガラリと一変する。メロディーにせよ無垢の壁にかかった一枚の絵にせよ。

私たちは、質的な相と量的な相という二重の相において物事をみている。しかし実際に私たちが生きているのは質的な相であり、量的な相は後から便宜上作り出した概念にすぎない。

 

2.私たちは質を生きるが、量で表現する

まず、量とは何か?

それはある単位に沿って、物が数えられるように置かれたものの形態を指す。

数える際は、数える対象の個性や各々の違いに目を向けることなく、ある空間上に並べる必要がある。長さや重さといった一見数えられないような概念も、空間上に定義した「目盛り」がいくつあるか(1cmが10個。だからこの長さは10cmだ!)で測定することができる。

ここで重要なのは、量はすべて「空間」を前提にしている点である。量を測定する、とは「二点間の長さを測ること」である。ここでは時間ですら、過去、現在、未来という数直線上の異なる2点の長さを調べることで測定できてしまう。本来質的なものであるはずの時間は「数直線」という、目に見えるもの、つまり空間上の概念に還元され、量的なものとして取り扱われる。

この量という概念は生活の必要上欠かせないものとなっている。例えば風呂に漬かるとき、質的な表現では漬かった瞬間のフィーリングを表すことは困難だが、量的な表現なら「この風呂は40度だ。ちょうど良くて気持ちいい」と端的に、かつ相手に分かりやすく伝えることができる。人は他者なくしては生きられないが、相手に自分の意図を説得的に伝え、共感や承認を得るには、量的な表現は有効なコミュニケーションツールになりうる。

量的表現は、嬉しいといった感情や、明るい、痛いといった知覚といった質的な概念までに及ぶことがある。例えば目の前の読書灯の調光ネジを今の倍にしてみる。その際ライトは明るくなるが、私たちはこれを「ネジをひねる前の2倍明るくなった」と表現するだろう。

この心理状態を量的な表現に置き換えると「強度」という言葉になる。心理状態といっても2パターンあり、感情や道徳、筋肉的疲労感といった外的要因に依存しない身体の内側の感覚と、肉体的快感や痛覚といった外的要因が引き起こす表象的感覚がそれである。今の読書灯の例えは後者に分類されるだろう。

では前者は何かというと、ここでは「恋」を挙げてみる。人は恋をしたとき、まず相手への漠然とした憧れが現れ、次に相手の全てを手に入れたいという欲望へ転じる。しかし他者故に全てを手に入れることはできないから、欲望は叶わない、しかし叶えたいという葛藤に陥る。この葛藤は中々冷めず、やがては相手のいない生活領域にいるときでさえ、そのことを考えてしまう。質的表現とはこの憧れから葛藤までの一連のプロセスを指すが、「強度」はこれらのプロセスを数直線化し、憧れの段階ではステージ1、葛藤に入る頃がステージ3、といった具合に恋の度合いを数値で表現してしまう。そしてステージの数値が大きくなるほど恋の「強度」が深まった、と解釈することになる。

このように量的表現とは、感情といった意識の深みから「内的多数性」を観測可能レベルまでに引き上げていくこと、そしてそれを、外から持ってきた単位や「強度」といった広がりのある大きさの観念にあてはめる表現技法のことを言う。

 

3.量や数は空間的なものだが、それ自体の性質を持つ

 1.で述べた通り、私たちは質的な相と量的な相の二相性を常に持って生きている。ここでは前者を量的多数性、後者を質的多数性と表現しよう。

ここではメロディーを例えに出してみる。ある曲の楽譜があって、そこには無数の音符が書かれている。そこでたった一つの音符を休符に変えて音を抜いてみる。試しに演奏してみると、たった一つの音符を無くしただけなのに、聞き手は「このメロディーはどこか音が抜けている」という、元のメロディーとは全く異質であるという評価を残すだろう。

量的多数性からすれば音符をひとつ抜かした「だけ」であり、これはささいな変化に過ぎない。これは楽譜に書かれた音符が「外在的で、数えられるもの」でしかなく、前後の音符とのつながりは一切無視される為である。しかし内的多数性において重視されるのは前後とのつながり、言い換えれば「相互浸透のダイナミズム」である。従って音符ひとつが抜ければつながりは壊れ、メロディーは異質なものと化してしまう。

私たちの意識や過ごす時間は、まさにこの相互浸透のダイナミズムである。「同じ曲」という量的多数性においては音の波長や大きさが常に一定の存在であっても、それを私たちの生活の文脈ー嬉しいときに聴くか、つらいときに聴くかーに即することで、意味合い、つまり質的多数性は全く異なっていくことだろう。

 私たちはこれを「持続の力」という。その背景にあるのは記憶と過去という圧倒的なバックグラウンドである。過ぎ去ったことは二度と繰り返すことはない、とよく言う。これは自身が今まさに生きているこの瞬間は、退屈な日常の反復ではなく、常に新しいものが生まれてきている、ということの裏返しでもある。「持続」がない世界では過去がなく記憶もない。あるのは瞬間のみであるから、反復ということが起こりうるのである。

質的多数性とは性質的多数性を指し、私たちは世界を性質として質的に認識する。しかし量的に世界を捉える行為も、それ自体が質的認識とはいえないだろうか?例えば目の前の羊の数を数える際、私たちは必ず1頭、2頭、3頭…と言うだろう。ただの量的認識と捉えがちだが、実はこの行為の中に質的多数性を孕むポイントが2点ある。

一つ目は3頭目の羊を数えるとき、1頭目と2頭目の羊を空間上のどこかに残せているということ。持続無き世界では過去という概念が存在しない為、1頭、2頭と数えた過去すら存在しなくなる。数えるという行為は「1頭目、2頭目を数えた」という記憶無しには、つまり持続無しは不可能である。

二つ目は1頭、2頭…の数字自体が他の記号にはない特殊な「性質」を宿していること。数える際はa頭、b頭…とは言わないが、これはa頭、b頭では分割したり和算したりすることができない為である。数字は本来分割・和算が可能という特殊な性質を持つ。さらに言えば、「1」という概念自体は分割することのできない非連続的な記号である。数字という非連続的な記号を並べ、それらに分割・和算という性質を加えることで、初めて量的単位として見做されるようになる。

サヴァン症候群の人々は数字自体に特殊な意味を持たせることで、その数字に特有のイメージを垣間見るようである。だから加減乗除が全くできなくても、膨大な円周率を瞬時に記憶できるらしい。このように、あらゆる数字はその感情的等価物を持ち、その世界は第二の自然である。第二の自然とは、質的多数性に生きる私たちが生んだ、豊富なニュアンスの海である。

さて私たちの日常生活は質的な相と量的な相を抱えているとすでに述べたが、このことについてもう少し詳細に検討してみよう。

ベルクソンは時計の振り子の例えを用いて、次のように説明する。自我の外にある振り子の世界は持続無き世界であり、あるのは振り子の各々の瞬間的な位置しかない。これに対して自我では持続の力が働き、過去の振り子の位置と現在の振り子の位置の相互浸透、つまり有機化が行われている。この持続無き外的空間と持続が働く内的自己の間に「交換」という現象が発生し、内的自己における意識と外的空間の振り子の位置を対応させてしまい、私たちの意識は相互に外的な諸部分に分解されてしまう。

自己紹介を例に挙げてみよう。自己紹介とは「私とは何者か」を他者に語ることだが、これは言葉なしには行うことができない。ところが言葉自体が空間内の特殊な音波の集合体(声)あるいは特殊な記号の集合体(文字)という外在性を持つものであるが故に、私たちの意識を言葉に表した瞬間、意識はすでに言葉という外的な諸部分に分解されてしまうと言えよう。