今年の鉄道趣味について

まさか移動そのものが禁じられる時代になるとは思いもよらなかった。

 

上記の通り今年は3~5月の自粛期間があったものの、それ以外はおおむね心のゆくままに乗り続け、仕事に余裕ができたこともあって楽しい一年になったと思う。

2月末に尾道・津和野・関門の旅行をしたときは友人とフグに舌鼓を打ったり、11月7日~9日の誕生日記念・関西私鉄乗り比べ旅では念願の山陽電鉄直通特急に乗ったりと、その内容も充実したものだった。

 

1/4~1/5・・・信越地方乗り初め(原野駅大糸線弥彦神社

2月末・・・山口フグ2泊3日(尾道・津和野・萩・下関)

3月半ば・・・感染予防 飯田線秘境駅巡り(田本・小和田・長篠)

7月末・・・関西私鉄乗り比べ旅①(近鉄・京阪大津線・阪急・阪神

8月盆休み・・・特別編 中学時代の暇人の集いと伊豆キャンプ

9月初め・・・北東北乗り続け旅(北上線・山田線・三陸鉄道・仙石東北ライン)

11月7~9日・・・誕生日記念 関西私鉄乗り比べ旅②(近江鉄道南海電車山陽電鉄

11月後半三連休・・・湯田中ゆったり大人旅行(上田城湯田中・松本)

 

このようにただ無邪気に趣味を極めればそれに越したことはないように思われるが、実際はそうはいかなかった。この楽しみにも、いくつかの「留保」がついて回ったのである。

 

その最も代表的なのがやはり「コロナ禍」であろう。2月初頭にニュースで流れ始めてはいたし、実際に2月末の山口旅ではマスクを着用する乗客は増えていたが、まさかその一か月後に移動そのものが自粛という形で禁止されるとは思いもよらなかった。そして3月半ばの飯田線巡りを最後に、7月末まで宿泊旅行はできなくなってしまったのである。

それからは遠征のときはどことなく引け目を感じることが多くなった。職場では衛生管理者を今年度より務め始めたこともあって、衛生を管理するはずの自分が感染してしまっては元も子もないと感じていた。9月初頭の東北旅の前には上司から岩手にウイルスを持ち込んだら大変なことになるぞと冗談半分に言われた。万が一自分が感染しても死ぬことはないはずであり、ウイルスの引き起こす症状自体はさしたる脅威ではないと思ってはいる。しかし私は、感染したという事実が起こす社会的損失を何よりも恐れた。そしてその暗い影は、あちこち乗りまわっている自分に多かれ少なかれ着いて回ったのである。

だからといってそれで乗るのを諦めてしまう自分ではなかった。ステイホームの名の下で自宅という巨大な棺桶の中でじっとしていられるはずがなかった。私はこっそり禁を破って日帰りで乗りに出かけたのである。

 

4月半ば・・・H氏と、西武線乗りつぶし昭島駅米軍基地引き込み線探索

GW初日・・・シーサイドライン完乗

5月半ば・・・京王井の頭線完乗

 

無論リスクは承知の上であった。それは感染するリスクとともに誰かに外出を見つかってしまうリスクも含んでいた。それでも禁を犯してでも、私は自由を渇望し、そしてどこかに乗らずにはいられなかったのである。

こうして考えると、鉄道に乗ること自体が一種の反社会的活動に思えてくる。鉄道ファンと自称すると必ず乗り鉄撮り鉄かを言われるが、これまでは乗り鉄と言えば毒にも薬にもならないといった風で反応されることが多かった。一方で撮り鉄はマナーの問題がメディアで大々的に取り上げられ、そして迷惑のレッテルを張られたり、あるいは趣味自体が異常と見なされて非難されたり、とにかくひどい扱いを受けてきたと思う。保身に走った私は、乗り鉄であることを強調して自身の社会的正当性を保ち続けたのであった。ところがこの騒ぎで移動は「自粛」され、文字通り「不要不急の旅行はやめよう」などと言われるようになった。それを破ればどうなるかという社会の厳しい目もあった。乗り鉄であった私は社会的正当性を損ない、乗るときに背徳を重く背負うようになった。

別に乗るときに今までに背徳を感じなかったことはない。この趣味は実家には極秘であり、ばれたらやかましくやめろやめろと騒ぎ立てられるのは目に見えていた。旅の最中に親から電話がかかってしまい、ばれるのを隠すために泣く泣く旅を断念したこともある。要はコロナ禍を通じて、この乗り鉄の背徳が分かりやすい形で現れたのであった。

 

 

 

 

 

喜びを考える

全ての喜びは、同時に全ての地獄である他者に存在する。この言説は本当だろうか?


人が喜びを感じるには、地獄を見るリスクを背負わなければならない。つまりそれは、私たちには地獄を見る覚悟がなければ喜びを感じる権利はない、ことを意味する。喜びを語るにはあまりに強迫的でないだろうか?


人の喜びはもっとやさしく、無条件で、掛け値のないもののはずである。そこに他者がいなくてはならないなどの条件はつかないはずである。


例えば、腹一杯食べたあと、よく晴れた芝生の上に寝転んで、気持ちよく寝る。これは喜びである。しかしここで得られる喜びに、誰々の名前は入ってこない。自分自身のみが感じた喜びである。


他者不在の喜びが、病理的・自閉症的に見られるのは、見る人側が「喜びの全ては、他者にある」という色眼鏡を掛けているからである。

コミュニケーションを「他者からどう見られているか」からいかに解放されるかは、今までよく研究されている。しかしコミュニケーションそのものから自分を解放する、というのは、独りよがりだとして省みられなかったのではないだろうか?


むしろ本源的な喜びは、他者=コミュニケーションというリスク付きなものは付随しない、自分自身から湧き上がる「大らかな気持ち」あるいは「発見の鋭い喜び」ではないだろうか?

乗る喜びの覚え書き

昨日、自粛明けに西武線に乗りに行った。西武多摩川線拝島線の一部、それに新型特急Laviewに乗ることが目的だった。その日は8時には家を出て横浜線から中央線の武蔵境に行き、そこで西武多摩川線の攻略に取り掛かっていた。

終着の是政駅から折り返して武蔵境の高架に差し掛かる際、曇天からかすかに陽が洩れて辺りが照らされた。そのとき私には、乗る喜びー心の芯が温まるようなおおらかな心情ーが一気に沸いてきた。自粛以降、すっかり忘れていた境地だった。

 

この喜びは刹那的な刺激では得られないものである。おいしいもので味覚を刺激したって、アミューズメントで楽しさを一方的に受けたって、いずれも心の表層のみへの刺激でしかない。芯には届かないのである。

 

小学校のころ、父がバナナのかっこうをしバナナのにおいのする菓子を買ってきましたが、比較的おいしいのでお客さん用にしようということになり、カンに入れてしまってありました。そうしてお客さんが来ると私たち子どもも分けてもらっておりました。それで、お客さんが来ればいいのになあと思い、来るとああよく来てくれたと大喜びするというふうでした。

何もないという状態のところに、お菓子がカンの中にはいっていた。その上に客がくて菓子を食べているという状態があった。だからそのころはお菓子がおいしかったわけです。

ところが、どうもいまは…お菓子の食べ続けで、何を食べてもおいしくないのは無理もありません。おいしいお菓子があって、それを食べるとおいしいということろから始めると、手軽でよいと思われるかもしれませんが、こうやって始めると、最初より二度目、二度目より三度目と段々刺激を強くしていかないと、同じようにおいしいとは思えなくなってしまいます。

 

社会学はこの世の悲惨ー人間の醜さーの現状を分析して明らかにする、怒りや憎さの学問である。全ての喜びは他者にあり、同時に全ての地獄も他者にありと言うように、喜びには裏があるという条件付きの窮屈な両義性をまざまざを見せつけてくる。これは自身の悲惨な最期を予見するような、悲劇的な学問である。

対して、鉄道に乗るこの喜びは、根源的なものであって、条件や両義性を伴わない。掛け値なしの喜びそのものである。社会学で見てきた現実ーまた逃れがたき存在ーとは正反対の、一種の理想である。

それは自身の唯一の救済の道であり、赦しである。それは名状しがたい「穏やかで、おおらかなこころ」となって私に現れるのである。

 

趣味の社会学ー文化・階層・ジェンダー 文化資本のジェンダー非対称性を巡る予感

 男声は階層差や階層文化の差を、学力=メリットへと転換することで、学歴競争といいながらも知能あるいは頭脳による正当性確保の競争に明け暮れている。男性は学歴という記号で知能を保証することで自らの正当性やランクを実感しているのに対し、多くの女性は文化の優越性によって自らの正当性を実感しているのではないだろうか。

(p227-228)

男は正統趣味を身に着けていても早期に学歴に転換されてしまうため、持ったところで意味をなさないことを示唆している。男性に必要なのは大衆文化≒つきあい文化であり、大衆文化への親和性が高ければ労働市場における成功を獲得しやすくなる。

今回の分析では、大衆趣味を拒否し正統趣味を受容する、文化的排除型の男については言及されていない。そもそもそのような性向はごく一部の文化的職業に就く者のみにしか存在せず、一般化するにはあまりに母数が少なすぎるからだ。ただし筆者は、そのようなケースは、却って労働市場の成功において悪影響を及ぼすことを仄めかす。

出自の地位が高い文化的エリートは、大衆化戦略を採ることで階層的なルサンチマン(上位者へのねたみ)を回避していると考えられる。とくに会社組織のような多様な人間関係のなかで成功するためには、ハイカルチャーを示すのではなく、いかに大衆文化的になれるか(宴会芸やカラオケ)がむしろ求められる。仕事中心主義の男性ハイカルチャー消費者ほど大衆文化摂取が多いという結果はこのことと無関係ではない。

(p139)

男は子供の時は学歴競争に、大人になれば出世競争に否応なく巻き込まれ、その場における成功という賭金を巡った承認闘争に駆り立てられる。出世闘争に有利になるための文化資本は大衆趣味の受容度であり、受容度が高いほど「ノリがいい」と組織に評価され出世を勝ち取ることができるようになる。ところが大衆文化を受容できなければ「あいつはノリが悪い」という誹りを免れず、結果、闘争の落伍者と化してしまう。

正統趣味の受容度の高さは闘争を勝ち取るための有利条件とはなりえない。もし正統趣味をひけらかそうともなれば「あいつはお高くとどまってやがる」と陰口を叩かれる。つまりスノッブー上品ぶった、いけ好かないロクデナシーのレッテルを張られ、社会的排除を受けることになる。

 

ポスト・パノプティコンとしてのリキッド・サーベイランス

ライアン:監視の話をすると必ずパノプティコンが出てきて鬱陶しい。すでに論理的限界に加えて歴史的限界があるのでは?

パノプティコンとは

可視的な場に強制的に据えられていて、そのことを自覚している人間は、自ら権力による強制の責任を引き受け、自発的にその権力を自分自身に対して働かせる。

 例えばパノプティコンの性質を最も過酷に示した「スーパーマックス刑務所」では、そのあまりの監視の苛烈さに受刑者が精神に異常を来して自傷行為を行うが、これは自らの身体を張った支配者への自己主張、言うなら「従順に対する反逆」ではないだろうか?

一方で最も穏やかな部分を示したデータベース・マーケティングでは一部のだまされやすい人間を驚くほど従順にしてはいないだろうか?

以上からしてもパノプティコン理論ではうまく説明できない部分が出てきてしまっている。どう思います?

 

バウマン:パノプティコン理論はいまだ健在と言えるが、普遍的な支配の戦略とは言えない。これは刑務所や精神病院といった「全体的施設」という過酷な監視環境で働く特殊理論である。対象は社会から「役立たず」と宣告されたのけ者である。

全体的施設の役割は、人間としての属性を剥奪することにある。そう考えれば先ほどの「スーパーマックス刑務所」の話も逆説的とは言えない。むしろ監視者からすれば受刑者が勝手に自傷行為や自己破壊を行い、自ら人間であることをやめてくれるので都合がよい。

ここで言いたいことは、「支配者が自分の望んでいることを、被支配者に押し付ける」のではなく「被支配者が『自発的に』、支配者が望むことを行う」ことにある。強制から誘惑へ、警備から欲望の喚起へと移行していく。同時に上司から部下へ、行為者も支配者から被支配者へ、行為の主体が移行する。

パノプティコンのもうひとつの特色と言えば、被支配者の個人性の徹底的な排除である。うすいおかゆや死ぬほどの退屈を通じて、被支配者の生活の選択肢を極限レベルまで減らす。(ヴェーバーの官僚制の「非個人性」に似ている!)

ただし現代はかつての管理者は消え失せ、代わりに管理者が請け負った責任を従業員が背負うようになった。そこから生まれたのはその人の全人格を会社に生かすことであった(自分らしさを仕事に、と就活本で書いてあったように)

 

ライアン:対象は社会から「役立たず」と宣告されたのけ者にはパノプティコンは有効と言ったが、これは全体的施設以外の場でも有効だろうか?

例えば「バノプティコン」は入国の際の民族マイノリティやテロリストのブラックリストのようなもので、これらの人間を「歓迎されざるもの」として排除するものである。

 

人の話が聞けていない

 

私は人の話を聞けていないようだ。友人からそのことを指摘されている。注意力散漫で相手の話を聞き取ることができなかった場合と、聞き取れても言われたことをすぐ忘れてしまい相手に反応できなかった場合に分かれる。 

いっそのこと、何かの病気・脳の異常と診断されたらいいのに、と思う。そうすれば自分は狂人だとはっきり悟って生活を割り切ることが可能であるし、健常者と同じように人間関係の結ぼれにかかずらう必要もなくなる。無理だと思うことも無理だと思えるようになる。

次の休日で精神科医を訪問してみるのも手である。

言語

よく困ったことがあったら相談しなさい、と言う。その際何に悩んでいるのか、どのようなことが障害になっているかを端的に伝える必要がある。しかし私にとっての悩みは、自分が何に悩んでいるかを明確化し、それを他人に伝わりやすいように言語化することの困難さにある。

頭の中には悩みというのが混沌という形で存在し、言葉はそれを切り取ったり表現可能な形に変換したりする役割を持つ。そこで私が抱える障害は①混沌をどこまで切り取るか。②切り取った混沌をいかにして言語に変換するか。③変換した言語をいかに論理的に文章化するか。④いかに相手に伝わるよう発声するか。の4点であろう。

この詳細は後日検討するとして、この障害は誰にも悩みを相談できない、相談しようとしたところで、相手から君の言いたいことがよく分からないと無下にされるという苦しみを生む。そしてそれは悪い意味での孤独につながる。

「おれはいやだ、いやだけれども、おれにはこれに対抗する理論は一つもない、あるのはおれの指だけだ、皮膚の中に深く食い込んでいる意見を証言している弱い指しかない」

自分の考えも悩みも頭の中に混沌として確かに存在する。ところがそれを言葉に示すことができない。私から発する言葉からしか私を評価しえない他者からすれば、黙っている私は何の考えもない白痴でしかない。しかしそれはあまりに悔しい。自分で自分を表現できない、あるのはおれの弱い指しかない、対抗する言葉は一つもない。